夏休みが好きだ。何をしてもしなくても良い、そんな余白が広がっている時間が好きだ。そう言い切ることができるほどに、この夏休みは楽しかった。
2年前、大学生になって初めて迎えた夏休みは、ただただぐったりしている間に終わってしまった。熊野寮というある種過酷な環境に身を置き、無自覚に体に鞭を打ちながら大学に通い、日々を満たしたい気持ちで無我夢中に手を伸ばし続けた4ヶ月を経て、私は弱りきっていた。前期の期末試験とレポートの提出が終わると同時に熱を出し、実家に帰ってベッドで眠った。熱が引いた後もずるずると実家に引きこもり、横になりながらインターネットの海に潜り続けていた。大学が始まってほしいとは思っていなかったが、夏休みがこれからもずっと続いてほしいとも思っていなかった。ただぼんやりと溶けて、溶かしていくだけにすぎなかった。
私は寂しかった。同期たちと作りあげようとしていた熊野寮のイベントからは、一杯一杯になって直前でドロップアウトしてしまったので、彼らに対してずっとバツの悪さを感じていた。気のいい友人ができたらいいなと思って入ったサークルは結局やめてしまった。そのサークルを優先して経済学部のクラス会を欠席してしまったので、同期たちと関わり合うきっかけを失ってしまった。ともに過ごす他者がいないままに、ただただ広い余白の中で私は立ちすくんでいた。
幸いなことに、今の私の周りには、私を抱きとめてくれる他者が、見守ってくれる他者が、ある日突然思い出したように連絡をくれる他者が、頭の隅の方に私を住まわせてくれる他者がいる。私はその人たちと過ごす時間が好きだし、その時間のために必要な準備であれば重い腰だって上げられる。
たくさん本を読み、文章を書いて、読書会や勉強会、研究室の合宿で人と話した。読書会で扱った小説に感銘を受けて書きはじめたフィクションや、これまで悩んできたセクシャリティをめぐる困難について扱ったエッセイを読んで声をかけてくれる人がいた。この春や去年の夏に縁あって出会った友人と久しぶりに通話をしたり、寮でともに過ごしてきた友人たちと旅行に出かけたりもした。
読書会や勉強会は友人達と勝手にやっているものだから、してもしなくてもいい。研究室の合宿も、私がやりたかったから数年ぶりの復活へと漕ぎ着けただけで強制されたものではない。気の向くままに文章を書くことも、作曲してそれに音楽を添えることも、だらだらと取り止めのない話をしたり、遠出をしたりするのも、別にしてもしなくてもいいことだ。しかし、心穏やかに「できる」ためには十分な余白が必要だった。
夏休みはじきに終わる。名残惜しさはあるけれど、大学の授業とともに再開する寮の食堂が、食べ飽きたパスタソースから私を解き放ってくれると思うと待ち遠しさも感じる。余白の中で他者と交わることを夏休み的であるとするならば、生活において夏休みこそが主であっていいようにも思う。縮小版であっても、日々に夏休みを。その中に生きていきたい。