夏、開放的で放埓な自由の季節。この季節に生まれた自分はこの季節が少し苦手だ。
当然好きなところもたくさんある。山が青々と茂り、山肌に残った雪渓が白く輝いて、その傍らに百花繚乱の高山植物が可憐に咲き誇る。久しく山から足が遠のいている今でも、そうした光景が鮮明に脳裏に浮かんでくる。唱歌「夏の思い出」の歌詞のような豊かな自然美と静かな高山の風景を想像すると夏もいい季節だと思えてくる。
しかし、灼熱の京都盆地の底に張り付いて生きていると、爽やかな天上地の空気とはなかなか縁遠く、その暑さと人の群れには嫌気がさすことも少なくない。街の夏は、若さと、エネルギーと、無鉄砲さと、無防備さから出来ている。そうした夏に没入できなくなってしまった今では、夏の混沌とした活力を前に腰が引けてしまい、どうしようもなく悲しい感慨を覚えるようになった。
自分の中でのこうした心境の変化は非常に示唆的だ。自己分析の域を超えないがあれやこれやと考えてみると、どうもこの息苦しさはもう自分は若者ではないという自認の表れだろうと思われる。
これには寮特有の文化で、一・二回生(若)と上回生(老)という軸で様々な行動や立場が語られることが多いのが影響している。もちろんそうしたしがらみに無頓着なために奔放に振舞うことのできる人間もいるが、自分は他者からの見られ方を気にし過ぎる呪われた性分なので、どうしても(コニュニティの中での)自分の身の振り方、立ち回り方というのに異様なほどの神経を消耗してしまうのである。
その中で去年と大きく変わったのは「もう若くないんだから」と自分に言い聞かせるような場面が多くなったことだ。寮のイベントなどでも裏方に回ることが増えたのは自分の性格からしても前向きに評価できることだが、一方で若くエネルギッシュな最前線とのギャップに、温度差に多少苦しむことにもなった。
こうした若さの幻影に勝手に追い回されては気分が沈んでいた訳であるが、それも夏休みに差し掛かると随分解消されたような気がしている。連続したコンパもひと段落して、若年層もそれなりに落ち着いてきたからだろうか。悲劇キャラになりたい訳ではないのできちんと自分の中に落としどころを見つけていくしかないと思いながらも、寮という空間にあと何年住むのかと考えると先が思いやられるばかりだ。
もう秋に片足を突っ込んだ季節に書いているからか、あるいは自分が救いようのないダウナーだからか、「夏休み」というお題にしては少し気落ちする、感傷的な内容になってしまった。秋は好きな季節だが、夏よりも感傷的になって体の輪郭もきっと縮こまってしまうだろうから、あまり抱え込まずに健やかな心を保てたらいいなと願う初秋の頃である。