日本の夏(荒砥)

季刊C12『夏休み』

京都で過ごす夏休みも、もう何度目だろうか。

そんな夏休みも、半分くらいの期間は週に1〜2回アルバイトのため滋賀県に通っていた。湖西線に乗り、降りてから線路に沿って敷かれた車1台分の横幅の道を10分ほど歩く。道路脇からはアスファルトの端を覆うように腰くらいの高さの草が生えている。左手には青い田畑と山地があり、右手には高架下から琵琶湖を臨む。行きは電車の音を聞くこともないが、帰りの時間には、一度だけ高架上の線路を電車が通り過ぎていく。額に手をかざさなければいけないくらい痛い陽射しと、水分を含んで体にまとわりつくような空気が、日本の夏を感じさせていた。近くに大きな湖のあるせいで、こんなにも湿度が高くなっていたのかもしれない。汗を乾かすために、何度も胸元をぱたぱたとやっていた。

「日本の」と言ったが、僕が一番「日本」を感じるのは、アルバイトに通うとき湖西線から見下ろすような、国道や県道を車が往来し、両脇に大きい駐車場と店が立ち並んでいる、あの光景である。もちろんこれは自分の出身がそういった田舎だからということもあるだろうが、こういった景色は日本のどこにでもあって、一種の安心感を与えてくれる。だから、いかにもこれが日本ですよみたいな顔をしている東京やら京都は外れ値の、言ってしまえば偽の日本ではないかと思うのだ。

思うに、これは代表と象徴の違いだ。前者はあるまとまりの中の突出した要素の抽出であり、後者は普遍的要素の平均的あるいは中央値的な抽出である。日本を代表する都市は東京やら京都かもしれないが、日本を象徴するのは決してこれらの都市ではなく、地方の中小規模の諸都市だ。そして日本の性格をよりよく表しているのは間違いなく後者であって、そういった意味で東京・京都は偽の日本だと思える。

ここまで書いて気づいたが、「日本の象徴」の家があるのは東京と京都なのでこれまで言ったことは全部嘘ということになった。大して意味のない言葉遊びである。

京都は今日も観光客でごった返している。遅まる日の出と早まる日の入りに、夏の終わりを感じるこの頃。

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