小さな共同体(荒砥)

季刊C12『C12』

 大学に入ってからかなり長い間、中学や高校に通ったり、当時の友人たちと会ったりする夢を頻繁に見ていた。反対に、大学にかかわることが夢に出てくることは、割合としては少なかった。

 夢が当人の心理的状態をどこまで反映しているものなのかは分からないが、自分の中に、中高のクラスのような、会う人が制限された日常的な共同体への郷愁があったのではないかと思う。知らない人と話すことがあまり得意ではない自分は、ほとんどがよく見知った人間である空間がとても心地よかった(小学校中学校の同級生は2〜3クラス編成でクラス替えなどもあったものの、9年間ほぼ同じメンバーだったし、高校の2-3年はクラス替えがなかった)。

 一方で大学に入ってからは一人暮らしを始め、人に会うことも少なくなった。サークルには所属していたけれど、毎日行くようなものでもなかったし、そこに帰属意識を感じているわけでもなかった(もちろん、その中に仲のいい友達がいたりはしたけれども)。大学院に入ってからは卒業して離れたところで就職する友達も多く、その傾向は加速していった。今や多くの人が身を置いているような能動的に働きかけないと人と会う機会がない環境というのはなかなか大変なものだ、と思う。

 そんな状況で、友人が入寮していたこと、経済的な事情があったことで熊野寮に入ってから生活はかなり変わった。あまり綺麗ではない、また相部屋という環境でうまくやっていけるか不安はあったけれど、思ったより適応することができた。他の人もよく言っているように、気軽に、いつでも誰かがいて会話ができる環境というのはとても貴重だ。今までは精神衛生が思わしくなくベッドの上で携帯を見ながら腐っている日も多かったけれど、そういったことも少なくなった。

 談話室にいる面々は、基本的に皆見知った人たちでとても心地がよい。他のブロックや寮全体の事柄と関わりを持とうとしないのはあまり良いことではないと感じているから、外に積極的に働きかけたい気持ちはあるが、そんなに無理するほどでもないか、と思ってしまう。どうも自分は大きな共同体よりも、小さなものに愛着を持ちやすい。

 もちろん、今の環境は長く続かない。高校までのクラスや部活動と同じように、一年もたてばガラリと変わってしまう、儚いものだ。だからこそこの儚さと向き合って、陳腐な言い方だけれど今を大切に、そしていつか理想化しすぎることなく、心に持ち続けていく場にしたいと思っている。

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